ある二月の晴れた日に

二月二十五日(金)
晴れ。春風


有給をとった。
思い出したようにまとめて四日とったら、気を利かせた責任者がシフトの休みを調整してもともとある週に二回の休みを前後に合体させて、六連休になってしまった。余計なお世話だと思った。なぜならばそうなると、と私は思案した。それを見透かしたかのように同僚が
「あれ、山本さん、どこかいくんですか?もしかして海外?」
と無垢に聞くのだ。私はとっさに答えた。
「そうさね、自分探しばしよかと思ってね」
実に機転がきいている。
これには、けっきょく自分は自分自身の中にあったという[幸せの青い鳥]の法則と同じいいわけを適用することができて、休み明けのお土産は福岡空港で[通りもん]を買えばよいのだ。
ネタにもなる。個人的には博多ぽてとが好きだ。


旅行など、行く気がないのだ。言わせて貰うと、せっかくの長い休みなのに、旅行にいかないなんてもったいないという考え方こそもったいないのである。
私は新しい男なので、そんな見知らぬ土地よりも自分が根を張ったこの街を素晴らしいと思うことの大切さを知っている。消費社会から一線をひく生きかたができる。私の妻になる女性は実に仕合わせだ。
私は、この機会に福岡の街をみてみようと思った。

そうして、あっというまに六連休の四日目になった。
思い返そう。
一日目、私は天神の蔦谷と併ったスターバックスコーヒーに一日中入り浸った。人間観察が趣味と答える輩を観察してやろうと思ったのだ。ほんとうの話、人間観察が趣味と答える輩は、まさか自分が観察されているなんて思っていないからいけない。まるで自分が世界の中心だと信じてやまない、今どき、天動説を信じているような古くさい人間だ。
キャラメルマキアートを注文して、二階に上がった。たいして興味もないアート系の専門書をカモフラージュに人を見た。棚一列に並んだ本を[アート系の専門書]とまとめるあたり、私の興味のなさが伺える。しかし、[きことわ]の作者が私と同い年には見えなかった。小説家というのはやはり早く老けてしまうのですね。
そうして、さあ、観察してやろうとテーブルについたのだけれども、そこで私は気づいた。世の中にはもっと上がいるのではないかと、気づいた。
私は人間観察をしている人間を観察してやろうと思ったのだが、もしかしたら、人間観察をしている人間を観察してやろうと思った人間を観察してやろうという人間だっているのではないか。さらには人間観察をしている人間を観察してやろうと思った人間を観察してやろうと思った人間を観察してやろうという人間だっているはずだ。そうなると、人間観察をしている人間を観察してやろうと思った人間を観察してやろうと思った人間を観察してやろうと思った人間を観察してやろうと思った人間だっているはずで、あ、もう、わからん!
とにかく、もう、せん。


そういうわけで、無駄に[きことわ]と[苦役列車]というほとんど対照的な芥川賞同時受賞作を読んで、中島京子の[桐畑家の縁談]と、糸糸山秋子の[イッツ・オンリー・トーク]を買って、帰った。最近、こういうの好き。
あと、寄り道してタワーレコードで[踊ってばかりの国]も買った。
なんだか、買い物日記みたいになった。



二日目はもう、天神には疲れたので家の近所を散歩した。新しくできたセブンイレブンでなぜかマヨネーズを貰った。昼過ぎから麦酒を買って飲んだ。家の近くの土手沿いをどこまでいけるか、ただ真直ぐ進むと最後はゴミ溜めみたいなところに着いた。殺風景とはこんなところなのだろうとわかった。
風が吹くと、お腹を冷やした。不法廃棄されたゴミはどんな強風にも耐え、その場にしがみついていた。まるで、私のようだと思った。
川をはさんだ向こう岸と、こちらでは家賃が違う。向こうが少し高い。駅が近くて、お店が多いのだ。私もいつかあちらにと思ったが、それがいつになるのだろう、その前に車も買わないとだし、貯金もしなきゃだなと考えると、すっかり酔いも冷めてしまった。二日目は失敗した。


三日目、朝起きるとなんだか目が痒くて鼻がムズムズする。アレがきた。同居人に告げると、もともと無駄な六連休を快く思っていないようで、
「そがんたしらん」と冷たく言い放った。私は薬局に走り、飲み薬と目薬、鼻にシュッとするやつを購入した。今年の花粉症対策には一万円までは出そうと思っている。そんなわけで、この日は一日中家でじっとしていた。
こうやって一日の日記が短くなっていくのは飽きてきた証拠である。


四日目、そうしてよく晴れた昼間から日記なんか書いている。よっぽど暇なのだろう。このままでは、六連休最終日の夜の後悔が目に見えている。
どうにかしようと思うのだが、新しい男はこんなことでは動じない設定なので、平気なふりをしようと思う。第一、新しい男という表現はとても古い本から盗んだ。もう、どうでもいいさ。