詭弁と憂鬱

夢を諦めないでいよう。
信じていればきっと夢は叶うから。
壁にぶつかって自分を見失うときもあるだろう。
でも、ぼくは君を信じているよ。
と、テレビ画面で最近流行の歌手が唄っている。

「なんと無責任な!」
そう言ってぼくはテレビの電源を切った。
信じているだけで夢が叶うのなら、世界はなんと楽なものであろう。
そもそも、世界中の夢が叶うとなると、現在のような摂取する側とされる側の関係性が崩壊、
つまり経済の破綻であり、そうなると叶うものも叶わなくなるのではないか。
また、たとえば、あるところに警察官を夢見る少年がいるとする。
彼は将来立派な警察官になろうと日々信じ、星に祈って生きてきた。
しかし、彼と時を同じくして「世界から悪い人がいなくなりますように」
と、これまた星に祈りを欠かさない少女がいた。
前述の歌手が歌ったように、何事も信じていれば叶うという言葉が正しければ、
少女の願い通り、この世から悪い人がいなくなる。
するとどうだろう、この世界から警察という仕事はなくなり、
それゆえ少年が長らく信じてきた立派な警察官になるという夢は叶わなくなる。
ほら、おかしいでしょう。なんと無責任なことでしょう。

しかし、よくよく考えてみると、ブラウン管の向こうで演奏している彼らには
僕および世界の人口数分の何かしらを負う責任などもともとないのであって、
はなから無責任なのは当たり前だと思い直し、
ぼくはテレビを点けなおした。
責任。
植物学的にきちんとした名称があるのも知らずに、
♪名もない花には名前をつけましょう♪
と唄う歌手だって無責任を知った上でそう唄っているのであり、
責任を負っては歌など唄えないのである。

それならば、どんな歌でも唄っていいのかというと
まぁそうなのだけど、歌手である以上、皆から共感を得たい、
それもなるべくなら多くの人から共感を得たい。
と思うのが人情であり、じゃあ、どのような歌が共感を得ることができるかと考えた挙句、
研究、調査の結果、そうか!このような曲だな!!と、単純で分かりやすい歌詞の曲を作り、
それがめでたく流行るのである。
つまりは、冒頭の曲は世間のニーズに合わせたものなのである。

と、そこまで思うとぼくは
「全く情けない!!」
とまたテレビの電源を消した。
そして、そのまま布団にもぐりこみ、
ヘッドホンで「いきものががり」の新しいアルバムを聴きながら眠りについた。

やぁ、矛盾。